●高見 順
・電車の窓の外は、光りにみち、喜びにみち、いきいきといきずいている。この世とはもうお別れかと思うと、見慣れた景色が、急に新鮮に見えてきた。この世が、人間も自然も、幸福に満ちている。だのに私は死なねばならぬ。だのにこの世は実にしあわせそうだ。それが私の心を悲しませないで、かえって私の悲しみを慰めてくれる。私の胸に感動があふれ、胸がつまって涙が出そうになる。(『死の淵より』中「電車の窓の外は」)
・中山外科のガン患者には農民が多い。その患者たちの話を聞くと、私などは実に頭がさがる。死との対決などという観念的なことは、そこには存在しないのである。(『闘病日記』以下同)
・助かるかも知れないと思いながら、人は死んでゆく。それで死ねるのだ。ガンは助からぬ。死なねばならぬと知りつつ死なねばならぬ。
・家族から離れて死をひとりみつめねばならぬこの「完全看護」というのは、残酷な仕掛けである。
・救われんとして仏法を修めてもだめだ。それでは救われぬ。(略)救われたいというところに自我がある。その自我がある以上救われぬ。救われるためには、自我を捨てねばならぬ。すなわち、仏法を修めんために、ひたすらそのために修することのうちに、おのずから救いがある。
・ありうべからざるものが泡のように偶然ぽっかりとうまれたもの、それが生なのではないか。死ぬときに苦しまねばならぬ(苦しまずに頓死する幸福な人もいるが)――あれは、ありうべからざるものではないか。また、生まれるとき、母親に苦しみを与えるあの苦しみも、ありうべからざるものが発生するためではないか。
・生とは実は死ぬためにあるのではないか――生命がそれを教える。いのちのある間は、生命の姿のままに生きねばならぬ。
・だれでも死なねばならぬ――と考える事は、みずからへの慰めのためか。このことの自覚がおそかったことへの悔いからか。
・人間の生は(一般に生は)他の死の上になりたっている。
●木原武一
・死の意識とは、要するに死への距離感であり、その距離感がともなってはじめて死は現実味をもって意識されることとなる。残りの距離がみえてきたとき、途端に圧倒するような現実味をおびてくるのである。(『人生最後の時間』以下同)
・人間が体験するのは、死そのものではなく、(略)死への距離感である。眼前に迫った確実な死を意識すること、これが死の体験であり、死ぬということについて本人が知りうることのすべてである。
・人間は泣けば泣くほど悲しくなるものだ。死から逃れようとすればするほど、死の恐怖は大きくなるばかりである。死の恐怖をやわらげるためには、死を受け入れるしかないのだろうか。
・生きることは少しずつ死ぬことであるとしたら、死ぬことを学ぶとは、生きることを学ぶことにほかならないのである。
・いつも近くにあり、いつも遠くにあるもの、それが死である。いつ死がやってくるのかは誰もわからない。老若男女すべてにとって死への距離は等しい。人間は生まれながらの死刑因である、と言ったのはパスカルである。たしかに、どんな善人も自分の番が来るのを待って居る死刑因と少しもかわりがない。平穏無事に見える生の起動も、どこかで死にいたる引込線につながっていることはまちがいない。
●吉田 満
・私は出撃(特攻)の命を受けてから、自分を見失ってしまった。死の時ほど、自分を赤裸々にみつめられる時はないはずだが、この時ほど、自分を喪失したことはない。掌中にある自分の死を正視するに堪えず、自分全体を見失ってしまおうと焦っていた。何ものをも見ないことによって、不安をまぎらわそうとしていた。自分と直面することが、何よりも恐ろしかった。そして私の感情は、自分だけは必ず生還すると、はかない妄信にすがっていた。だが私は、はからずも生還した。作戦の変更という、不測の事態が起こった。私の肉は、たまたま生きてかえった。しかし心はたしかに死んでいた。(「死の信仰」)
・つねに自己をみつめ、一日の生に悔いなきを期し、一瞬一瞬に自分を超えること、それのみが、死に備える途と思われた。したがって、生を全うする途でもあった。(同上)
●藍沢鎮雄
・彼等(親子心中の親)の病前性格はいずれも未熟な人格像を示しており、決行時の心理状態は圧倒的に憂鬱反応の形をとっている症例が多い。しかし、未熟で反応をおこしやすい人格、また仮に自己破壊傾向の強い素質を仮定したとしても、これも各国共通の因子といえる。(『日本人の精神史』)
●上野千鶴子
・前近代の日本では、七歳までに死んだ子どもには葬儀を出さない習慣があった。まだ一人前の人間と認められていなかったからである。葬という儀礼は人類とともに古いが、それは社会がそのメンバーを失った恐れや嘆きを表現している。子どもはまだ社会のメンバーに正式に参入してもいないのだから、失ったからと言って葬う必要もないと考えられたのだろう。間引きのような子殺しを「子がえし」と呼ぶ言い方の中にも、同じ思想が流れている。子どもにとって死は「もといた場所に還っていく」ことととらえられていた。子ども時代には「生と死の垣根」は低かったのである。(「新聞」以下同)
・死を「上がり」と考えることができない現代人にとっては、それは突然の中断のようにしかやって来ない。そういう現代人にとって、死は「事故死」のようなものになるほかない、という(井上俊氏の)指摘は、「上がり」も「感性」も欠いたのっぺらぼうの生のありようを、しらじらと照らし出していた。
・死は生の後に来るのではない。死はいつも生の傍にある。「人の一生は、棺桶の蓋を覆った時に定まる」という言い方があるが、それは、死を生のゴールと、生の完成ととらえる見方だ。そう考えることができたら、どうなにいいだろう。
・生の意味を知らないわたしが、死の意味だけ知っているわけがない。わたしはただ生きているのに、死ぬ時だけとつぜん意味づけられるのは、まっぴらだ。人間は「生の意味」を問う前に、すでに生きてしまっている。意味がわかるまで生き始められない、ということがないように、死の意味がわかってから死ぬわけでもない。――わたしには死について考える準備ができておりません。と謙虚に答えることにしているが、いつになったら準備ができるのか、答えがあるわけでもない。そんなわたしが老いについて考えるのは、よく生きるためであって、死に方を考えるわけではない。
●重兼芳子
・私は千葉敦子さんや宇野重吉さんの最期をマスコミが讃美したことに反発を覚えます。ああした最期の迎え方は、あの人たちの個性であって、なぜ他の人たちに御手本みたいに提示されなければならないのですか。そうした美意識が他の人たちを苦しめるのです。大騒ぎして死んでもいいではないですか。患者一人ひとりの個性、死に方を認めるべきではないですか。(新聞)
・臓器移植や脳死の論議がかまびすしいけれども、人間は亡くなれば死体になると信じている人たちの論議である。死体と遺体とは違うのであって、御遺族が「死体である」と認めてこその脳死論議なのだろう。何時間か前に、「家内と息子がまっているから」と言われ、「もういくつ寝るとお正月……」と歌声を聴いておられた方が、ポイントを静かに越えられてしまわれても、その方の余韻まで失ってしまったと、どうして思うことができるだろう。白布を一枚お顔にかけただけで、すべてが終わりだなどと、どうして決めることができるだろう。(『死の意味老いの価値以下同』)
・人がその人生をしめくくろうとしているとき、私たちは生者の側の論理を押しつけてはならないのである。その方たちのかすかな声や静かな表情から、なにかを聞き取ろうと耳をすませば、ひたひたとひそやかに訴える声を感じる。その声は地球上に生息するあらゆる生命体の生の営みの声である。人間という強者の奢りを戒める哀しみの声である。
・(米国のホスピスを訪ねて)医学という科学を上手に利用しながら、決して科学に支配されることなく、一人一人の人間を中心にしたケアを行っている。もともと日本人は科学に支配されるような生き方はしたくないのである。四季を巧みに取りこみながら生活し、秋の落葉のように自然に生の終わりを迎えたいのである。
●山本常朝
・死ぬと知っては居るが、皆人死に果ててから、我は終わりに死ぬ事の様に覚えて、今時分にてはなしと思うて居るなり。(『葉隠』)
●千葉敦子
・声を失うということは、一つの死を死ぬとだと思う。自分自身の重要な一部を失うこと(略)。だから、私はいま自分の弔いをしているような気分だ。失ったものを、直ちに諦めることはできない。なぜなら、それは私が大切に思っていたものなのだから。私という人間の重要な一部を失ったのだから。服喪の期間が明けたら、スピーチ・セラピストについて練習をし、「音」は出せるようになるつもりだ。だが、私の声はもう戻らない、と医師にいわれている。こうして、一つずつ死を死んで、死の積み重ねが、最後の死へ私たちを導いていくのだと思う。一つ一つの死は、充分に悼んでやらなければならない。一つ一つの死には、それに先行する、一つ一つの輝かしい生が存在したのだから。(「『死への準備』日記」)
●亀井勝一郎
・死はいうまでもなく生成とは正反対の概念です。しかし人間生成は、必ず死の自覚を伴う。そこに人間たることの特色があると言ってよいでしょう。人間として自己を自覚するとは、自己の有限性を自覚することであります。人間は、必ず死ぬべきものと定められている。不可避の運命です。生命にみちあふれている青年時代には、死のことなど考えないかもしれませぬ。死の忘却の刹那は誰にでもあります。しかし死の方では、人間を一刹那でも忘れてはおりませぬ。(『愛の無常について』以下同)
・死に対する想像力は、生に対する現実的観察の原動力とならなければならぬと私は思うのです。死は生を照射します。
・死とは、厳粛に考えるならば、我ら人間がそれへ向かって成熟して行かねばならぬ一種の「完成」なのです。一人間の完成とは死。生とは未完の死。妥協です。故に死について考え、迷う、一念を形成するとは、死の練習といってもよく、これが精神というものの本質的な面目なのであります。
●曽野綾子
・死への思いが日常必要だと思うのは、死の概念がないと、私たちは自分が本当に何をしたいのかがわからなくなるからです。もし明日私は死ぬのだと決まったら、人間は何をするでしょうか。(『旅立ちの朝に』以下同)
・もし死という可能性がなかったら、すべてのすばらしいことは、魅力が薄くなってしまうでしょう。
・いいこと、おもしろいこと、凄いことをやる人は、皆心のどこかに確実な死の観念を持っています。
・死は生を味付けしてくれる塩なのです。
・老年も死も総ては限りなく自然で、それだけに堂々と安定しています。そして、それよりもなおすばらしいのは、人生が未完であるということです。なぜなら人間の存在そのものが不完全なのですから。未完であり、何かを断念して死に至るということは人間の本性によく合っているのです。(『別れの日まで』以下同)
・別れの日というものがいつかなければ、われわれは誰にせよ、自分にまなざしを向けてくれるすべての人に対して、かくも感謝し、その存在を尊く思うということもないのではないかと思うのです。
・人間はいつ迄も元気で生きるような気がしていますが、私たちの信仰では、日々死を思うように習慣づけられています。死があってこそ、初めて私たちは生を認識するのです。それはとりもなおさず、死は生の延長と考えることになります。
・林の中などを散歩する時、私は落ち葉を踏んで歩き、その生命を失った落ち葉が、再び木を養う養分となることを思う時、輪廻とか転生とかではなく、一枚の葉の死が、現実に生を助けている有様を見る思いがして、いつも心がほのぼのと明るくなる。人間はやりようによっては、自分の死によって、生きるものを助けたり喜びさえ与えることができるのに、と思えるのである。そして最低限、私に自然に死んで行くことは愛らしく善意に満ちて偉大だ、と教えてくれるのである。(『永遠の前の一瞬』)
・病気がなおりにくくなるということは、死に向かっていることだ。それは悲しい残酷なことかもしれない。誰の上にも一様に見舞う公平な運命である。しかしその時人間はわかるのだ。歩けることは何とすばらしいか、自分で食べ、排泄できるこというのは、何と偉大なことか。更に頭がしっかりしていて多少哲学的なことも考えられるというのは、もしかすると一億円の宝籤を当てたのにも匹敵する僥倖なのかもしれない。(『中年以降』)
・友人に先立たれることは(夫に先立たれることと同様)常に事前に、繰り返し繰り返し予想することが大切である。そうすると、やって来た運命に対して心構えができる。いよいよ別れるのだ、と嘆くよりも、何十年か楽しく付き合ってもらって、ありがたかった、と感謝すればいいのである。(『戒老録』)
・私はこの母の人格の変性は、老いからくる一種の病変の結果であると気付くことができた。人間の死は、決して一度にやって来るものではない。人間は老いと共に、長い時間をかけて部分的に死に続ける。そのことを私は知らなかったのである。(『夜明けの新聞の匂い』以下同)
・死を承認するには、常日頃死と馴れ親しむほかはない。死を多く見て、いつか自分もああなるのだ、と思う手もあるが、自然の樹木を見ればそのようなことは、自ら理解できるようになる。自然の樹木は若葉を芽吹き、春から夏にかけて自分の任務を終えて、やがて散る。その朽葉が自分の木だけでなく、林全体を育てる。
・人生の最後の時に必要なのは、納得と断念だと私は思っている。納得するには、日々、人生の帳尻を締めて、「今日が最後の日でも、まあまあ悪くはなかった」と思う癖をつけることである。
・死に意味を見つけられるのは、信仰なのである。
・もちろん、死を予告されることはつらい。しかし、どんなに辛かろうと、それは自分の運命なのですから、われわれは知らなければならない。それを避けるということは、人間の死を放棄して、動物の死に方をすることです。その人の運命を当人に告げないということは、重大な犯罪です。(『時の止まった赤ん坊』)
・いかに重要な人でも、その人の死によって世界が狂ったり、立ち行かなくなったりしたことはない。その人の死後にも、野山には若葉が芽吹き、けんらんたる花が咲く。その営みは少しも狂うことがない。人間の死の何という軽さよ! 自然は一人の人間の死について、まさに何一つ記憶しようとせず、いたみもしないのである。(『地を潤すもの』以下同)
・地球上の人間の数だけ、そこには思いを残した死がある。
・人間がいつまでも生き続けられるように見える世界だけを対象にしていると、私たちは判断をあやまり、大して重要でもないものにがんじがらめになる。しかし、死の観念と共に生きていると、多少とも選択をあやまらなくて済む。自分にとってほんとうに要るものだけを選ぶようになる。(『悲しくて明るい場所』)
・死は、人間の年齢とは関係なく訪れる。だから人間が尊厳なものとして存在しようとするなら、死を早くからどんなに苦しかろうと学ばねばならない。(略)現世に理不尽である部分が残されていなければ、人間はけっして謙虚にもならないし、哲学的になることもない。(『都会の幸福』)
・主は全く無力な瞬間にも、人間の優しさと労りに応えられたと私は読み取ることにしている。もしかすると私たちは無力な瞬間にも、れっきとしてなし得ることがあるのである。甘えを排除し、冷厳な人間の死を見つめた人だけが、更に最後の一瞬になって徒手空拳でそれだけのことをする。(『私を変えた聖書の言葉』)
・「夫婦が仲がいいなんて考えもんだよ。仲が悪い夫婦なら、片一方が死んだら、正直なところ万々歳なのよ。そういう亭主は、死んだら確実に女房を楽にする。全く功徳だよ。女房に手を焼いている男もそうさね。(略)ところが仲のいい夫婦は気の毒だよ。欠落感がひどいから、そう考えると、人生どっちに転んでも同じだね。(略)だから、この世で、初めから終わりまでいいことなんて人はめったにないと思うんだ」(『神の汚れた手』)
・あらゆる願わしくない、しかも不当な運命に会う時、人間は飛躍的に精神を太らせて来た。罰を受ける理由はないのに「老、病、死」を苦しまねばならない時に、人間は初めてこの地球を全体として眺めることができるようになる。信仰や哲学がそのためにできた、などという言い方をしなくても、人間はその時になって初めて自分を把握し、自分の生命が数十年の使命を終えて無機物に還るその過程を「受諾」する気持ちになれる。つまりそれは、人間が自分を真に成熟したものとして育てるための、最後の贈り物なのである。(『辛うじて私である日々』)
・だっていまこの瞬間にも、生きていたくても、生きることはもう無理だと言われている病人がいるでしょう。自殺するなんて言うのは、あまりにもそういう人に失礼だと思いませんか。(『夫婦、この不思議な関係』)
・この大地は至る所墓なのであって、有史以来この地球上で死んだ猫の数は、億、兆、京、その上の単位はボクも□に無い。とにかく数京匹である。人間も又、そうであろう。どの土地も誰かがそこで死んでいる。それなのに、たかだか数百年、自分の残したカルシウムを補完するための墓のことなど重く考えるのは実におろかしい。猫はそんな馬鹿なことはしない。静かに大地に還るのみである。(『ボクは猫よ』)
・死が必ず訪れると理解していれば、残された時間にしたいことがはっきり見えてきますよね。同時にどうでもいいこともわかってきますし、むだにしている時間はないのです。(『「死」について赤裸々に語る』)
・人もこの「大地の一粒」であって、木の葉が落ちるのは死ということではなくて、生の変化に備えるため。それを繰り返して老いた時に、自分の死を他者の生のために譲ることが大事だと私は思っているんです。(同上)
●唐木順三
・死は前からしのび寄るものではなく、後から追いかけて来るものでもない。死に囲まれて生きているのが現状である。死の大海に浮かんで浮遊しているのが現実であろう。生と死は同一線上の出来ごとではなく、死という空間、平面的に広く、立体的に深い空間の内に一個物として浮かんでいるのが、われわれの生というものだろう。死の大海と言ったが、我々の生がその内に含んでいるわけだから、厳密にいえば死の大海ではない。生死海ともいうべきだろう。生滅滅已、寂滅為楽と言いならわされているが、生滅が滅し已るところが寂滅の涅槃ではなく、生は寂滅相裡の一営為というべきではないか。(「古いこと新らしこと」)
●尻枝正行
・死ぬというのは消え去ることではなくて、生きる様態の移り変わりに過ぎないと思うのです。祈りと愛の想い出の中で、いつまでも生き続ける存在と言い換えてもいいでしょう。(『永遠の今を生きる』)
●秋山 駿
・ここに在るものが、ただ一つのかけがえのないものである、と思うとき生の内部に生ずるのが、「私」である。私とは、生が死の発条に触れるとき発する花火のようなものだ、こう言ってもよい。私とは、人間の内部で死の光によって輝くものだ。この空間この時間において、私と言うものはただ一点である、と思うためには、死の座標軸が要る。(『人生の検証』)
●鈴木三郎
・そもそも死を厭うのは本能的と言うが、そうではなさそうだ。死に伴う苦痛への恐怖に始まり、様々な欲望が失われる絶望まで、死の恐怖は終始、脳の存在を前提とする。本能よりも多分に後天的の代物らしい。だから心身健全な間はあんまり真剣には考えたがらない。腹の底では絶対にさけられない結末と承知はしているものの、改めて己の大脳皮質を動員してまで念を押す必要は考えたくないのさ。
・高尚な文化人を以て任ずる識者ともなれば、尊厳死を標榜し医療の介在を高踏的に謝絶する。いずれも脳の働きが、まあまあの間の話。心底死ぬのは望むところでは無いから、一旦脳出血やアルツハイマーで知性が崩れると、安楽死、尊厳死宣言以前に舞い戻る。だから宣言どおり、尊厳死を貫き通した話は宣伝の割に少ない。転向例には家族の懇望でなどと注釈がつく。なに俺様に言わせりゃ、死病が自分に見えてからが人間の本性。玉の緒にしがみつく一動物に変身するさ。
●児島 洋
・人間は単なる「生」ではなく、すでにはじめから、自己の中に「生」に対立するもの、「反=生命」ともいうべきものを内包しているので、単なる「生」はいわば人間の断片にすぎず、むしろ、「生」に「待った」をかけられて人間、「生」に対立するものと接触しつつある人間の方が、より「全体的な」人間であるのではないだろうか。そして、より「全体的に」生きる人間、それがより「真剣に」生きる人間なのではないだろうか? (「現代哲学における『死』の問題」)
●島尾敏雄
・死の方に進まなくてもいい生き延びられる世界は、色あせて有りふれたものにしぼんでしまい、そこで手ばなしで享受できると考えた生の充実は手のひらの指のすきまからこぼれてしまった……。」(『出発は遂に訪れず』)
●杉本苑子
・私は一番きちっとして納得できる死に方は自死だと思っています。この特権をふり回してはいけないだろうが、人が自分の最後の尊厳を守るため、個人の選択としてそれを選ぶことは、一概に否定されるべきことではないのではないでしょうか。(新聞)
●神谷恵美子
・精神障害、ことに内因性精神病の場合の自殺には多少特異な点があるが、一般的にいって自殺しようとする人は、自分にはもう生きている意味がないときめこんでいるのであろう。このように、自分の生きている意味などというものを意識的にせよ、無意識的にせよ、考えてみることができるのは、戦時下のような非常時より、むしろ考えるゆとりのある時代や境遇においてなのであると思われる。(「旅の手帖より」)
●蜀山人 ?
・昨日まで人のことかと思ひしが俺が死ぬのかこれはたまらん。